STORY 60年ストーリー 笑顔を願った
60年の歩み

  • 過去を巡る
  • 今を支える
  • 未来を描く

※本稿はサマリー版です。
PDFで社史の全文をご覧いただけます。
全文版では各時代の医療情勢を含めて
歴史を紹介しています。
ぜひ両方お読みください。(敬称略)

プロローグ 仕事の厳しさの中に、
笑顔があった

2018年夏。「協和医科器械株式会社」は60周年を記念して「60周年プロジェクト」をスタートさせた。プロジェクトテーマには、「笑顔」を採用した。これは「何人にも笑顔をもって協力を」という社是に由来している。

本社4階の役員会議室で、社長の柴田英治は前社長(4代目)の平野清にプロジェクトの方向性を報告した。「これまで、会社の底流にある協和医科器械の“らしさ”を議論してきました。やはり、それは『笑顔』です」

平野は目を細めてつぶやいた。「田舎から出て右も左も分からない僕が入社した時、先輩たちが働く姿は自分には輝いて見えた。仕事の厳しさの中に、いつもひたむきな笑顔があったよ。設立から間もない頃のことだけど、それは強い印象として残っている」

協和医科器械はこの60年、何をモットーに歩み、世の中にどんな貢献をしてきたのか。歴史を紐解くに当たり、設立メンバー、歴代社長、現経営者層、社員など多くにインタビューを行った。笑顔というテーマを切り口に、協和医科器械の強みに迫る。

第1章 和をもって協力し発展

第1章のポイント

  • 自転車1台、2人でスタートした創業時
  • 「協和」の名前の由来は「十の力が3つ」
  • 社員の家族を大切にするDNA

徒手空拳での船出
自転車1台でのスタート

1959年、協和医科器械は、「池谷医療器械店」の池谷定と平山泰、「村松医療器械店」の村松道夫と永田幸夫らにより設立された。設立年をこの合併の年としているが、設立に至るまでには前史がある。

設立からさかのぼること7年前の1952年。静岡県内の医療機器卸で一番の売り上げを誇った「長谷川医療器械店」を退社した池谷定と平山泰が、池谷医療器械店の看板を掲げて同業をスタートした。国会中継の放送開始や漫画家・手塚治虫の「鉄腕アトム」が月刊誌連載をスタートさせるなど、戦後復興が目に見える形で進む中、池谷も平山も一国一城のあるじを夢見て独り立ちを決意したのである。

2人は、清水市仲町(現・静岡市清水区江尻町)にあった「平岡薬品」に居候する形で仕事を始めた。清水市内に店を構えたのは、当時、市内に居を構える医療機器卸がなかったからだ。移動手段は自転車1台である。2人はそれを交代で使用して診療所を回った。

「スタートが1月で、その年の12月末に締めたら『80万円残った』と池谷さんが言っていた。それはよく覚えている。ただし、その1年間は給料らしい給料はなし。食べられたらよいという考えで、やりくりして残ったお金」と平山は言う。

池谷定と平山泰の写真
創業時の池谷(写真右)と平山。この自転車1台で診療所を回った

協和医科器械の設立
十の力を、和をもって協力し発展させよう

東京タワーを起点にテレビ各局が電波を発信し始めた1959年、村松と永田は長谷川医療器械店を退社し、静岡市内で村松医療器械店として商売を始めた。

池谷医療器械店と村松医療器械店との間を取り持ったのは、清水市(現・静岡市清水区)内の病院の事務長だった佐藤覚円だった。佐藤は地元のお寺の僧侶でもあった。「同じ長谷川医療器械店にいた者同士が、同じ市場を争うことはないではないかと佐藤さんが言ってくれてね。わが社の恩人の1人」と永田は言う。

同年7月31日には、池谷医療器械店を株式会社に変更し、社名を「協和医科器械株式会社」としている。合併時には、池谷医療器械店には池谷と平山の他に従業員が4人増えており、村松医療器械店の2人と合わせて、8人でのスタートだった。

社名は、池谷と平山、村松の3人が、10年以上の医療機器卸経験者だったことから、「十の力を和をもって協力し、発展させよう」という意味に由来している(「協」の字体を分解すると、「十」と3つの「力」になる)。会社のカラーはグリーン。“季節に関係なく緑色は消えず、限りなく発展する”という思いから採用された。

創業者・池谷定
今も引き継がれる池谷のDNA

ここで、協和医科器械の設立の中心であり、33年間にわたり初代代表取締役社長として会社をけん引してきた池谷定の人物像について紹介しておきたい。設立以前から二人三脚の形で歩んできた平山は次のように語る。

「仕事上のことで、池谷さんとはよくけんかした。私は、どちらかというと、もうけは後から付いてくると考えたが、池谷さんは現実的に物事を考える人だった。それがあったから、2人でやっていけた。けんかをしたのも、私の性格を知ってのことだろう。“平山は怒らせれば、仕事を頑張る”と思っていたのかもしれない。その意味でも、人を使うのがうまい」

設立メンバーの1人だが、年齢が10歳近く離れていた永田の池谷定との思い出は少し趣きが異なる。

「よく一緒にお酒を飲んだことが楽しい思い出として残っている。お酒の席で説教じみた立派なことをいうわけでもない。でも、ものすごく誠意があった。自分が言った言葉に対する誠意を感じた。ぜいたくをする人ではなかったね。始末屋だ。始末屋とはお金を大事に扱う、無駄金を使わない人という意味。普段の生活もそうだったね」

日本でグループ・サウンズが隆盛を見せていた1967年に入社した平野は、社員に優しい池谷定の印象が強く残っているという。

設立初期、社員で神社に参拝した際の写真
設立初期のひとコマ。社員で神社に参拝

「若手とコミュニケーションを大事にしていた。よく社員寮に寄ってはお酒を飲んでいった。寮生は飯を食えないだろうと言って給食手当として月3万円をくれた。『とにかく、飯を食え』と。自分が若かったからか、池谷社長は優しいなと思ったことを覚えている」

柴田は、1978年の入社当時から会社には家族的な雰囲気があったと語っている。

「社員が一生懸命に働けるのは、家族があるからこそという考えを持っていた。私が入社した頃は、家族を招待した運動会を開催したり、清水港の祭りがあれば参加したりした。家族と一緒の社員旅行にも行った。会社の規模が大きくなって、全体では行えなくなったが、営業所単位で同様な行事が続いているのも、池谷さんの社員と家族を大事にするDNAが今も残っているからだ」

創業者として会社を引っ張り、拡大を続けながら、社員と家族を大事にする池谷の姿が各人の言葉から浮かび上がる。柴田が言うように、今も池谷のDNAは引き継がれている。

第2章 事業拡大の歩み

第2章のポイント

  • 第2次ベビーブームの時代に乗る
  • 新しい機器への興味と割賦販売の工夫
  • 医師から頼られる先進の医療知識

病院、診療所の増加
新規顧客開拓に力を入れる

まずここで、1960年代当時の社会情勢と医療を取り巻く環境を整理したい。大きな特徴は、産婦人科を設けた病院や診療所の増加だ。1960年前後に約160万人だった出生数は、1973年には209万人となっていく。いわゆる第2次ベビーブームの到来だ。そのためこの時代の医療機器卸にとって、産婦人科と取引をすることは事業拡大の大きな要因となった。

「業界では新参者だったから、既存顧客の御用聞き商売では相手にされないことも多かった。だから、新たな顧客開拓の必要があった。産婦人科が増えていたので、そこに向けた営業に力を入れていた。産婦人科は協和医科器械の業績が軌道に乗るきっかけの1つだった」と永田は言う。

1960年代に急増する開業医も、新規顧客開拓の対象となった。診療所開設のサポートを行うことも多かったと平山は言う。

「親しくなった医師から開業予定の後輩医師を紹介されると、すぐに飛んでいった」

開業立地の選択から、不動産業者との掛け合い、土地探し、設計事務所との建築図面打ち合わせ、融資のための金融機関の紹介も行った。今でいうコンサルティング活動である。「情報を持っているから、あの地域は同じ科の診療所が少ないとか、人口が増えているからもっと診療所が必要だ、などとアドバイスをした。医療機器の提案は最後だった」と語っている。

心電計と割賦販売
レントゲン機器の普及

1960年代から70年代にかけて、医療機器の技術も格段に進歩していく。医療機器開発により、協和医科器械も高額な医療機器の取り扱いと販売体制の整備が次第に本格化していった。1960年代半ば、協和医科器械では心電計の割賦販売を導入している。「医療機器販売で、割賦販売を導入したのは静岡県内で初めてだったと思う。けれど、仕入れは分割払いできないから、池谷さんは困ったんじゃないかな」と永田は言う。会社設立数年目で、メーカーとの取引においてまだ十分な与信のない中での販売である。「とにかく集金に行ってこい」「集金しなければ給与は払えない」と言われることは月末の恒例だったようだ。「もう必死だった」と、当時のことを永田や平山は述懐している。

1965年前後に本格的に取り扱いを始めた高額な医療機器として、レントゲンがあった。それまでのレントゲンは高電圧なため、診療所などでは扱いにくかった。しかし、1965年頃に新しくコンデンサ方式のレントゲンが発売され、レントゲンを設置する診療所が増えてきた。

当時のことを永田は次のように振り返る。「僕がこの業界に入ったころ(1950年代後半)のレントゲンというのは、撮影する時に『ヴーン、ヴーン、ガシャーン』とすごい音がしてレントゲン室は変電所のような感じだった。それが1960年代半ばになると、100Vの電源で大きい力が働くコンデンサ方式のレントゲンができた。医療界全体が進歩して、それに伴って医療機器も進歩していく。医者は新しい機器が出ると興味を持つ。私たちも新しいものを持っていけば売れる。そういう時代だったのではないか」

浜松医科大学の設立
手術室のある病院への営業強化に

第1次オイルショックが日本中に衝撃を与えた1973年。医療業界にも、この年に閣議決定がなされた「経済社会基本計画」における「一県一医大構想」によって、大きな変化が訪れた。1974年に「浜松医科大学」が設立され、次いで1977年に附属病院が設置された。同大学の設置当時、浜松営業所(現・浜松支店)の所長に就任していた永田は、当時を振り返ってこう語る。

「医科大学や大学病院との取引は、当社として初めてのことだったから、組織や決定権の把握に戸惑うことがあった。しかし、この経験はその後の山梨県への事業進出にも活かされたと思う」

「浜松医科大学の教授から、『山梨医科大学』(現・山梨大学医学部)の話があり、教授を紹介されたこともあって営業所の開設前から週に1回は足を運んでいた。人脈の大切さを肌身で感じた」と永田は述懐する。こうした一連の動きの中で、1975年を前後にして協和医科器械の営業戦略も変化していった。

それまでの営業活動は、開業医向けの比率が大きかったが、地域の核となる総合病院が整備されるようになり、大病院も主な営業対象として捉えるようになった。「それまでも病院に積極的に営業をかけていたが、会社をより発展させるためには、手術室を有して、高度な医療機器を必要とする総合病院をターゲットとする営業戦略に転換する必要があった」と平山は言う。

事業拡大への歩みと
協和医科器械最大の危機

1975年、協和医科器械は、レントゲンおよび医用電子部門の販売力についての強化を図るため、「精工医科電機株式会社」を吸収合併。ME事業部を創設して、修理とメンテナンスの事業を開始した。1980年には、同事業をさらに発展させるため、ME事業部を独立させて「株式会社協和エムイー」を設立し、代表取締役社長に平山が就任した。

好調に滑り出す事業がある一方、1980年代は、設立以来、最大の危機に直面した時期でもあった。1981年、循環器科および眼科領域の専門性と販売力を強化するため「株式会社オズ」に資本参加。この経緯は後述するが、業務提携に際して、協和医科器械から村松道夫を社長、宮部勇を取締役として送り出し、オズ生え抜きの大江一光に全面協力するなど強固なアライアンス関係の構築を目指した。ところが、のちに協和医科器械の3代目社長になる池谷保彦は語る。

「オズは循環器科と眼科、協和はそれ以外と決めて営業戦略を立てたのに、うまくいっていなかったのを覚えている。協和が静岡や清水の病院に行くと、どこへ行ってもオズとぶつかっていた」

静岡県でともに事業を拡大していくどころか相討ちしていく状況があった。

さらに悪いことは続いた。本社における中核社員の造反だ。まさに青天の霹靂、会社は前代未聞の危機的な状況となる。中堅どころ数名がそろって出奔し、医療機器販売の会社を設立してしまった。村松は言う。「とにかくお客様に迷惑をかけないよう、夜になると毎日対策会議を繰り返していたよ。上の人たちが『どうしよう、どうしよう』と言ってたな」

当時の社員はずいぶん苦労したものの、これまでのメーカーとの信頼関係により静岡県での代理店権を維持し、圧倒的な品目数を取り扱っていた協和医科器械は、池谷定指示のもとお客様に迷惑をかけないことを最優先に、この危機的状況を耐え抜いた。

1970年代後半から協和医科器械は総合病院をターゲットとする方針へと舵を切る一方で、このころの行政は1つの病院の仕入れ先が1つの企業に集中することを避け、取引先を複数社に分ける傾向が顕著となっていた。そこで目を付けたのが、静岡県で古くから一般汎用商品の医療機器卸として名前が売れていたオズである。

オズ買収は、協和医科器械がM&Aを通じて事業拡大を進める先駆けとなるのだが、それはまだまだのちの話となる。協和医科器械の出資から20数年を経て浜松CV営業部もオズに移管される。静岡県を代表する循環器領域専門ディーラー、オズの礎はこの時代に築かれた。

家族も参加
社員旅行と運動会のDNA

1970年代から80年代の協和医科器械の最も楽しい思い出として残っていることに、当時の社員は、社員旅行と運動会を異口同音に挙げる。

ちなみに全社員参加の社員旅行が初めて実施されたのは、1966年のことだ。旅行先は南紀。これ以降、社員旅行は定期的に行われていく。家族を招待した社員旅行も一度行われたことがあった。さらにのちには、会社設立35周年を記念して1994年にハワイへ、1998年にはオーストラリアへの社員旅行が実施された。

運動会は毎年4月29日に家族参加で行われていた。当時を知る社員が、会社生活の思い出として全社員参加の社員旅行や運動会を挙げるのは、今では行われなくなったため郷愁として心に残っているからだ。同時に、社員が100人にも満たない規模の会社でありながら、当時から福利厚生に手厚かったことに、社員が誇りを持っているからでもある。

「社員寮、車代、食費代といった手当は、若手社員にとって本当にありがたかった。運動会のとき、奥さん同士が会話している光景を思い出す。本当に楽しそうだったし、社員でいることに誇りを感じた」と柴田は言う。

現在は会社規模が大きくなったため、拠点や部署ごとに社員旅行やレクリエーションを行うようになっている。2018年に17回目を迎えたフットサル大会が、「メディアスホールディングス株式会社」のグループから24チームが参加する一大イベントに育っているのも、協和医科器械の持つ家族的な雰囲気がDNAとして残っているからではないだろうか。

社員旅行のハワイでの写真
設立35周年記念のハワイ旅行

第3章 静岡県内トップへの躍進から
県外へ進出

第3章のポイント

  • 静岡県内シェアトップに。隣県へと業容拡大
  • 介護福祉機器販売に進出
  • SPDの構築と協業

日本経済が冷え込む中
静岡県内トップへ

会社設立時の1959年、協和医科器械は「同じ市場で競争することはない」と踏んで、池谷医療器械店と村松医療器械店の合併により会社の発展を目指した。しかし、1990年代以降は、競争の激しい首都圏や名古屋などの大都市圏に飛び込んでいくことになる。経済の風向きが大きく変容する中、協和医科器械は1990年代に静岡県でシェアトップに立つ。そして、そこを足場に1993年、神奈川県横浜市に横浜営業所(現・横浜支店)を開設して首都圏に進出。さらに、1997年に愛知県名古屋市に名古屋南営業所(現・名古屋支店)を開設し、静岡県外に営業エリアを着々と広げていった。

1980年代の協和医科器械は、静岡および清水エリアにおいてオズとの業務の切り分けを進め、逆風に苦しみながらもその困難を克服すべく地道な営業活動を続けていた。他方、静岡県東部の沼津、西部の浜松では、時代の後押しも受け順調に市場を拡大していた。1980年代初頭、静岡県内で続く公立病院の新築増改築ラッシュにより協和医科器械のビジネスは波に乗った。

平野は当時の思い出を語る。「うちは若手が多かったから吸収力もあったし、機動力もすごかったのではないか」

さらに「成長できたのは、欲をかく人がいなかったからかもしれない。“目の前の仕事を一生懸命に取り組めば、先に進む”と1人ひとりが信じていた」と言う。一方、柴田は「昔から、頑張ろうと思う気持ちが自然に生まれる環境があった」と話す。時代の荒波にもまれながら、おごり高ぶらず、地道な努力を続ける姿勢が、会社の成長につながった。

協和医科器械のもう1つの事業
介護福祉機器販売のベネッセレ事業部

1987年に入社した桜井久雄によると、入社時、すでにベネッセレ事業部の前身である健康管理課はあったという。健康管理課は、その中で、あえて医師、看護師をはじめとする医療従事者や病院の事務課ではなく、老人施設、病院の病棟、売店などにおいて主に病院から退院する患者が必要とする車いす、ベッドなどの介護福祉機器や吸引器、吸入器、ストーマ関連製品の販売に注力をしていた。この時代、まだ介護保険は存在せず、退院する患者は必要なものをすべて個人負担で購入していた。大抵の患者は、必要なものがどこで買えるかがわからない。それゆえ多くの場合、医師や看護師が退院する患者に協和医科器械を紹介しており、健康管理課社員は病院、老人施設を訪問し、個人のお客様に商品を販売する多忙な毎日であったという。

介護保険導入の議論が世間をにぎわせた1990年代前半から半ばにかけて、協和医科器械静岡営業所は1つの転機を迎える。当時の静岡営業所は、設立メンバーの1人、村松道夫の自宅であった。静岡市内の顧客も堅調に増加し、いよいよ静岡市との取引が始まる段階になってくると、市内に介護福祉分野専門の事業所を構える必要性が検討されるようになった。そもそも介護保険ということであれば、これまでのように病院から退院する患者だけが対象ではなく、むしろ一般のお客様が直接商品を見にくることができるように展示設備がなければならない。そのような流れの中、協和医科器械は、1995年にベネッセレ静岡営業所を開設することになる。

1990年代、協和医科器械の躍進
隣県への進出と業容拡大

1977年入社の小林勝美は「今思えば……」と当時を思い出しながら語る。「永田幸夫社長とは私が本社勤務時に時折お酒を飲みながらいろいろな話をしていた。酒の場で神奈川県開拓の話が出ており、何となく私の使命のように思え、次第に意志も固まっていったように思う」。1993年6月末、小林に横浜営業所長への辞令発令。永田幸夫の鶴の一声だった。

新横浜のビルの1部屋を、事務所と倉庫に区切っての出発。協和医科器械は静岡県では県内シェア一番手の医療機器卸として代理店制に守られていたが、新規進出の神奈川ではそれがない。ゼロからの出発であった。小林は当時を振り返りながら言う。「参入には本当に苦労した。でも、横浜営業所開設メンバーの1人が眼科に強かった。そのせいなのか、眼科に縁があり、メーカーからの紹介があった」

横浜営業所が最初に獲得した大型病院は藤沢市民病院、納入したのは眼内レンズであった。小林曰く、「会社人生において最もうれしく、強く印象に残っているのは、横浜市立大学附属市民総合医療センターの新築案件の獲得だった」と言う。

協和医科器械は、1995年西東京営業所(のちに多摩営業所に改称、そののち東京営業所に移転)、1997年神奈川西営業所(のちに湘南営業所に改称、そののち厚木営業所に移転)、2001年江東営業所、2001年相模原営業所(のちに厚木営業所に移転)と営業拠点を断続的に開設し、首都圏エリアにおいて地歩を固める。

「苦労をしたとは思わないし、仕事は楽しかった。当然、今まで誰もやったことがないわけだから新しい市場の開拓は厳しい。でも、永田幸夫社長や池谷保彦常務が横浜によく来てくれた。そして病院にも同行してくれた」。小林は続ける。「本当にあたたかく見守ってもらっていたと思う。それを裏切ってはいけないと3人でいつも話していた」

SPDって?
SPD初受注からNHS社との協業まで

協和医科器械で最初にSPD(Supply Processing&Distribution)を受注したのは、福田正則である。福田が入社したのは1987年、従業員が150人ほどの規模の時代である。入社後、焼津営業所(現・焼津支店)に配属された福田は、5年後掛川営業所(現・掛川支店)に異動し、総合病院2件と開業医を30件ほど担当した。受注から商品のピッキングまですべて1人でこなしていた。

数年後、出入りしていた掛川市立病院から、SPDをやらないかと声がかかった。福田は「SPDってなんだ?」と思いながら、当時、営業本部長であった池谷保彦に相談すると、「すでにSPDで実績を持つ中国地方最大手ディーラーの川西さんに様子を見にいこう」と言う。「川西医科器機株式会社」(現・カワニシホールディングス)を視察し、その後JFE健康保険組合川鉄千葉病院(現・医療法人社団誠馨会千葉メディカルセンター)にも見学に行って、そこで使用されていたSPDの管理システムを掛川市立病院で導入することが決まった。当時の掛川営業所には病院の物品を一括で管理できるスペースがなかったため、建物を大きくして掛川市立病院のSPDのピッキングのための倉庫をつくった。SPDの小分け作業のためにパート社員を3人雇い、配送は福田が自身で担当した。

こうして協和医科器械が静岡県では他社に先駆けて、一社一括によるSPDの構築を成し遂げたのである。

愛知で会社を吸収
協和イズムに共鳴してもらう

1998年には、愛知県内の販売力強化を目的に、「株式会社ハヤシ」の株式を100%取得。2000年、ハヤシの社員と営業所を融合し、名古屋南営業所を名古屋支店に改称、小牧営業所(現・小牧支店)、豊橋支店、岡崎営業所、日進営業所(2007年閉鎖)の5拠点で愛知県内の営業活動を本格化させた。

1983年の入社以来、浜松支店において営業を牽引してきた坂上聡が、豊橋支店長に抜擢されたのは2003年のこと。2003年に、旧ハヤシの社員のみが在籍する豊橋支店に支店長として赴任した坂上聡は、吸収した会社との融和について次のように語る。「私以外は全員、旧ハヤシの社員だった。合併して、3年の年月がたっていたが、社員は吸収された側という意識が残っているためか、営業力を十分に発揮できていない感じを持った。そこで、着任後しばらくは、協和医科器械の営業ノウハウや理念に共鳴してもらうことを第一とした」

すでに、協和医科器械は静岡県内ではシェアトップとなっていた。しかし、県境をまたぐと状況は一変する。愛知県内には大手の医療機器卸が存在していた。誤解を恐れずに言えば、二番手以降の医療機器卸は、面会の約束も、提案内容も、常に一番手の後塵を拝しており、またそれが当たり前だった。坂上は、二番手であっても、仕事で勝ち癖を付けるために先頭に立った。先人が実践した取り組みを、坂上は愛知で率先して実行した。「3カ月もすると、私がそれまで体得してきた『協和イズム』とも言える営業手法や心構えを、旧ハヤシの社員も理解してくれるようになった」と振り返る。

第4章 ついに上場。
次世代へのバトンタッチ

第4章のポイント

  • 上場への道
  • 物流センター開設
  • 首都圏エリアの統合
  • 提案力が求められる時代に

「上場するぞ」——夢のはじまり
池谷保彦、3つの企業戦略発表

1994年、常務取締役営業本部長に就任した池谷保彦が社員に向けて話した内容を柴田は鮮明に覚えているという。「新常務が3つの大きなテーマを発表した。その1つが大胆な人事異動。2つ目が週休2日制の導入。そして、3つ目に『プライベートカンパニーからパブリックカンパニーへ(=上場するぞ)』と言った」

つまり池谷保彦は、会社規模の拡大に向けて営業拠点を増やし、ドラスティックな人事異動を行うと宣言したのである。同時に、土曜日に取引先の病院が診療しているために、休暇を取得しにくかった勤務体制を改善するとしたのだ。人事異動と休日増の、硬軟織り混ぜた企業戦略の発表であった。さらに「上場する」という命題を掲げ、社員に対して夢を持たせたのである。

柴田は40年を超える勤務の中で「あの年の宣言と、上場したことが、私のこれまでの会社人生の中で一番の思い出」と語っている。協和医科器械が上場へと向けて歩み始めたのは、世間では介護保険導入が議論される1994年のことだった。

「一 大胆な人事異動、二 週休2日制、三 上場」

柴田の印象に強く残ったように、常務取締役となった池谷保彦は3つの方針を打ち出した。「3つの方針はすべて会社の今後の成長を考えてのこと。まずは県外に進出するための人員配置。またこの当時、世の中には週休2日制が浸透し始めてきた。そのため、よい人材を確保するためには、週休2日制が必須だろう、と。そして、会社を大きく成長させるためにはM&Aが必要。そこでまずは、株式交換などの方法を取ることができるように上場しよう、と」

しかし、上場を宣言したものの、本格的に取り組み始めたのはそれから約10年後、池谷が社長に就任した2001年以降のことである。それまでは、まずは足下の業績を固める必要があった。1990年代、協和医科器械は、神奈川県、愛知県、東京都へ相次いで進出。協和エムイーやハヤシの株式取得など、着実に地盤の強化、売り上げの拡大を図っていった。

そして、池谷保彦が社長になった2001年、協和医科器械は持株会の設立、確定拠出年金制度の導入、上場準備のための人材確保など、上場に向けた歩みを急速に進めた。未上場会社が上場を認められるまでには、最短で3年間、通常でも4~5年の準備が必要とされる。その間に、予算管理体制や内部統制と業務プロセス、規程整備といった各種の整備が求められる。

2000年に総務部長に就任した柴田はこう振り返る。「内部統制や規程整備の面で、それまで以上に管理部門の重要性が高まり、社員一人ひとりへのコンプライアンス(法令遵守)意識を高めることが重要課題だった。上場という目標ができてから、当時のトップ層は、正義と利益の選択を迫られたら、間違いなく正義を取れと口酸っぱくして言い続けていた。特に、『自社の常識は、世間から見たら非常識だと考えるように』と言われたセリフは印象的だった」

池谷保彦も言う。「『社内の常識は、社外にとっての非常識』。協和の社長時代に私が常に言っていたこの言葉は、常にいろんな角度から俯瞰的に物事を見なければならないという思いから出たものだった」。永田幸夫が社長を務めていた時代から一貫して、池谷が考える上場の目的は会社を成長させることであった。池谷は、当時の想いを振り返る。「上場も目指すべきだけれども、これからは風通しのよい会社であることが重要だと。何よりもコンプライアンスを重視していかないと会社として成長もできないと考えた」

「正義と利益のどちらかを取らなければならない状況に遭遇したら、迷わず正義を取れ」

メディアスホールディングスグループのコンプライアンスにて最も有名なフレーズである。

2006年9月15日。誠実な取り組みが結実し、協和医科器械はついにジャスダック証券取引所に株式上場する。上場時の説明会資料によると2006年6月期の売上高は483億円、従業員は543人である。上場初日に付けた初値は、499円だった。

上場後は、さらにコンプライアンスに対する意識が社内で結実していった。その後、単独株式移転方式により、協和医科器械の完全親会社として「協和医科ホールディングス株式会社」を設立、現在の「メディアスホールディングス株式会社」へとつながる。1994年の池谷保彦の上場宣言は、2006年のジャスダックという入口から始まり、2017年3月東京証券取引所一部上場をもってようやく完成した。

新たな提案型営業
医療機関に寄り添う取り組み

協和医科器械が、コンプライアンスを重視する経営姿勢を明確にするのと同時期に、医療機関も法令順守への注力姿勢を取るようになる。当時の医療機関の状況を簡単に解説しよう。

1990年以降、高額な医療機器の開発が進み、何千万円、何億円といった医療機器が出現すると、医療機関でも導入の意思決定に至る過程においてそれまでと違った様相を見せ始めた。例えば、従来、MRIやX線CTに関しては、機器を実際に使用する放射線科のトップにいわば専決的な導入決定権があった。しかし、これらの機器が広く普及し始めると、カルテなどを通じて診断結果を活用する他の科からの声も大きくなっていく。

医療機関の中で、高額な医療機器に対して1つの科のみが導入決定権を持つことへの反発の声が上がるようになり、導入への意思決定プロセスの見える化が次第に求められていった。

背景には、リスク管理はもちろん、各科に委ねられていたコスト管理を透明化することで、赤字体質から脱却を図る、病院経営上の狙いもあった。それが、現在多くの医療機関で採用されている、委員会形式による医療機器の導入選定、意思決定の仕組みにつながっている。

実は、医療機関にこれらの仕組みが整備されると医療機器卸の提案型営業の重要性は、より高まっていくことになる。それまでは、営業担当者が各科の医師に対してそれぞれの接点で営業活動を行ってきた。しかし、医療機関で選定委員会の仕組みができあがると、営業担当者が1つの科に行けばいいわけではなくなる。物流、アフターサービス、情報システムなど、医療機関への様々な側面からの支援の可否が選定基準に入るようになった。

2004年の会社案内
2004年の会社案内。「笑顔」は常に協和医科器械のテーマだった

現在、多くの医療機関で採用されているSPDも、医療機関の業務効率化、コスト削減の流れの中にある。このシステムは、医療材料の適正管理を実現し、過剰在庫の防止や製品の使用期限の把握などを可能にする。

協和医科器械の経営陣の1人は「SPDのメリットは、データの共有・分析によるコスト管理の徹底。医療機器・材料におけるコスト管理を専門的な知見を持つ私たちが提案すれば、次の新たな提案につながる」と考える。別の経営陣も「私たちが、客観的な立場から適正な医療機器をしっかり提案し、病院側に寄り添ってオブザーバー的な発想を持つことが大事。二人三脚で課題解決に取り組む、病院にとっての最高のパートナーとなれる」と語っている。

医療機器選定のプロセスは変化しても、医療機器卸に求められる顧客に寄り添った提案を実践する本質は、昔と大きく変わるところはない。

エピローグ 100年たっても
「笑顔」を引き継ぐ

協和医科器械が歩んできた60年の歴史をまとめるに当たり、設立メンバー、歴代社長、現経営者層、社員など多くにインタビューを行った。取材の最後に、「協和医科器械が100周年を迎えたときに、どうなっていてほしいか」を尋ねると、皆、一様に真剣な表情になった。現社長の柴田は言う。

「基本的に、会社が存続し、継続して成長していくことは必須です。原動力になってきたのは、何があっても社員とその家族を守る、社員も家族も幸せであることが一番大事という創業の想いにあると考えます。自然に受け継がれてきたその気持ちが、現在の協和医科器械を形づくっており、これからもその想いを引き継ぎながら、将来につなげていってほしいです」

池谷定とともに、時代を駆け抜けた平山泰はこう話す。

「夢の、夢の、そのまた夢を言うと、医療機器を販売することで、国内はもとより海外の医療レベルも上げたい。病人をもっと早く治療してあげたいではないですか。人間だもの。それが夢ですよ。医療機器も、世界中に発信できるものをどんどんつくってほしいね。それから、私たちの世代は戦争を体験しているから、やはり戦争は嫌ですよ。人種差別がなくなって、世界から戦争がなくなって皆、平和に健康に暮らせたら本当にいい。100年、200年かかっても、そうなってほしい」

池谷定の後を継ぎ2代目社長として業容を飛躍させた永田幸夫はこう語る。

「お客様というのは、とにかくサボったらその関係はすぐにダメになる。復活させてもらおうと十倍の力を使ってもダメなのです。一歩一歩、毎日の積み重ねしかないと思います。一歩一歩、さらに一年一年間違いなく伸びていけば100年先でも協和医科器械は残るのではないですか。100年後に市場全体がどう変わっていても、その全体の中で協和医科器械がどういうふうに伸びていくかという話ですからね」

永田幸夫の後、3代目社長となり株式上場に導いた池谷保彦は言う。

「今後ますます時代が変わっていくとはいえ、今も、そしてこれからも皆さんが人生において企業人として過ごす時間は非常に長いものではないかと思います。会社で過ごすその長い時間を無駄にせず大切に使ってください。そして、日々バランスよく多角的に物事を捉えて、常に前進することを意識していただきたいと思います。それから将来にわたって『何人にも笑顔をもって協力を』という協和の社是をぜひ皆さんの心の中で大切に育んでいってほしいです」

そして、前社長であり、上場後の協和医科器械を引継ぎ、後輩へとバトンを繋いだ平野清は言う。

「『明るく真面目に働きます。よい仕事をします。自分の責任を全うします。無事故で過ごします。一歩前進します』先輩から引き継いだこれらのバトンを後輩に渡せたかなと思っています。時代が変わって、もしかしたら医療制度そのものも変わっていく中で、我々医療機器商社がどうなっていくのか。風通しのよい職場で意見を出し合い、チャレンジし、成功に向かって歩み続けてください。そして、これからは、病院の下にいる存在ではなく、信頼されて一緒に考えていく存在になっていてほしいと思います」

会社を成長させながら社員と家族を守り、医療機器の販売を通じて地域医療に貢献していく——。協和医科器械の社員たちに、この想いは未来を描く原動力として受け継がれていくだろう。その笑顔とともに。

柴田社長と社員の写真
未来をつくる社員とともに

Column 1 浜松医科大学での
腹腔鏡手術の開始に協力

ここで、浜松医科大学でのエピソードを1つ紹介しておこう。

1983年に入社して浜松営業所に配属となった坂上聡は、2003年までの20年間、浜松医科大学を担当した。そのとき、「腹腔鏡手術(内視鏡手術)」という、当時最先端の手術方式の開発に立ち会う経験をしている。

1990年に同大学の外科に着任した木村泰三助教授(当時)が、文献などで国内に紹介されはじめた腹腔鏡手術に挑戦したいと、坂上に打診してきた。

腹腔鏡手術は、内視鏡を使って行う術式だ。しかし、胃カメラに代表される内視鏡を外科手術で用いることは当時としては想定外で、もっぱら内科検診に使用されていた。加えて、当時の大学病院では、担当科が異なれば、治療方法が共有されることもなかった。

「国内でも術例がなく、手術用機器を開発するところからのスタートだった。私は、他の科で何が行われているのか、何が先端の治療方法で、どういう器械を使用しているのかを知っていたので、木村先生が頼ってくれたのだと思う。先生から腹腔鏡手術の方法を聞き、術式に役立つと思った他科の情報を丁寧に伝え、木村先生が手術の方法を組み立てていった」と、語っている。

木村助教授が浜松医科大学でこの腹腔鏡手術を行ったのは1990年7月。国内では2番目の成功と言われている。坂上にとって、新しい手術方式の開発に携われたことは、会社人生の中でも印象深く、「医療に貢献してきたのだ」と誇りに思える経験だと述懐している。

腹腔鏡手術は、術中の患者の負担が少ないことや、手術痕があまり残らないことから現在では広く行われている。しかし、一方で開腹せずに手術を行うため、担当医師の技術的なハードルも高い。当時から30年近くたった今でも、木村医師(現・富士宮市立病院名誉院長)は、この腹腔鏡手術の啓発に努めている。

Column 2 将来の医療の提案
「メディメッセージ」

協和医科器械の特色の1つを「“プラスアルファ”の価値を提示する提案型営業」という視点で見たとき、地域の医療環境向上を目指した「メディメッセージ」は特筆すべき取り組みだろう。

現役医師や看護師によるトークセッション、最新の腹腔鏡手術やカテーテルの実演、さらに来場者が実際に医療機器に触れることのできる体験型プログラムの実施など、医療機関のみならず地域の皆様からも高く評価されるこのメディメッセージは、2007年に第1回が開催された。

実は、第1回は医療関係者のみを対象とした展示会を静岡市内で開催したものの、来場者数は500人にとどまり、運営上反省すべき課題が多く残った。翌年の開催に向け、企画を見直した際には、社内から様々な意見が出た。「家族も招待して社員がどのような仕事をしているのかを知ってほしい」というものや、「医療機器メーカーと医療機関の両方をよく知る協和が、一般の人と医療機関との架け橋になれないか」、「最新の医療を広く知ってもらうことで、医療をより身近に捉えてもらいたい」、「青少年が将来的に医療従事者になる動機付けを与えたい」といった声だ。第2回以降のメディメッセージは、こうした協和医科器械の社員の発想から産声を上げた。

実現には、医療従事者の生の声を伝えるための医師会などが主体となった実行委員会の構築と、それらを協和医科器械がサポートするという仕組みづくりが求められた。しかし、初めから企画に携わっていたメンバーは、医療関係者から理解をもらうことに最も苦労したと述懐している。「これはもうけるための企画ではない。将来の医療界のためなのだ」ということを、医師や看護師、その他の医療関係者に何度も丁寧に説明することで、開催にこぎ着けることができた。

運営の責任者は、子どもたちへ医療の素晴らしさを伝えたいと語る。「こういう仕事があるということを子どもたちに知ってほしい。子どものときに参加したメディメッセージがきっかけで医療の道に進んだという青年が出てくればうれしいですね」

メディメッセージは、恐らく全国的にも珍しい取り組みだ。地元のマスコミなどからの取材も行われ、例年2日間の日程で約7,000人の来場者を呼ぶことができる。2008年以降、定期的に静岡県内で開催。2018年には3年ぶりに開催され、未来の地域医療を担う子どもたちが積極的に実物の医療機器に触れられる体験型のイベントとして多くの来場者を集めた。

特別寄稿 協和医科器械の60周年に寄せて

協和医科器械は60年にわたり、お客様の笑顔のために事業を続けてきました。当社がご支援させていただいているお客様に、静岡県立静岡がんセンターがあります。山口建総長は、ディーラーの役割は、医療機器・診療材料に関する詳しい情報を持って医療機関を支援する「医療機関の御用掛」だと言います。山口総長に、医療の現状と協和医科器械への期待を語っていただきました。

静岡県立静岡がんセンター総長 山口建氏の写真
静岡県立静岡がんセンター総長
山口建氏

協和医科器械の設立60周年を心からお慶び申し上げます。

静岡がんセンターは、静岡県東部の住民120万人の地域医療機関充実という期待に応え、静岡県によって開設された医療機関です。県庁での検討は1994年頃より始まり、既存の医療機関の機能、許可病床数などを勘案し、1996年の基本構想を経て、1997年に「理想のがん医療を目指して」という旗のもと、615床の高度がん専門医療機関建設の基本計画が固まりました。その後、2000年に建設が始まり、2002年4月、静岡県立静岡がんセンターとして開設され、開院準備を進めた後、同年9月に、まず313床で病院の開院を迎えました。

「理想のがん医療」というテーマの実現に当たっては、第1に、「がんを上手に治す」ため、先端的がん医療と「死の質」の向上を目指す最期の看取りを追求しました。17年余りを経過した今、がん患者診療数は、がん研究会付属有明病院と国立がん研究センター中央病院と並んで我が国のトップスリーの一角を占め、特定機能病院や静岡県がん診療連携拠点病院としても評価されています。第2に、「患者・家族の徹底支援」を目指し、包括的患者家族支援体制の充実を図ってきました。この活動によって、2012年、朝日がん大賞を受賞し、その成果が評価されました。

現時点での、静岡がんセンターの概況を図1に示しました。業務委託を含め2,000人以上が勤務し、病床数は607床、年間7,600人を超える患者の診療に当たり、手術件数は年間4,700件余り、死亡退院数は年間1,200人以上というのが現況です。

図1 静岡がんセンター診療指標(2018年度)

図2は、静岡がんセンターの運営に当たって、医療機器・診療材料・医薬品の購入・管理・運用の概要を示したものです。静岡がんセンター病院の年間総予算が約400億円、このうち、約10億円が医療機器の購入に充てられています。病院全体で約4,000品目の医療機器があり、その一部が毎年、新規購入され、あるいは更新されています。消耗品としての診療材料は約4,000品目で、年間の購入額は約24億円です。また、医薬品は約2,000品目で、年間、約94億円を購入しています。高額の医薬品が増え、薬剤購入費は大幅な伸びを見せています。一部の物品管理や院内運搬業務はSPDが担い、その業務委託費は年間約2.2億円です。ここで、医療機器・診療材料の購入に当たっては約40社のディーラーが参加しており、協和医科器械はそのうちの1社です。また、医薬品のディーラーは約6社が参加しています。

図2 医療機器・診療材料・医薬品の購入・管理・運用(2018年度)

静岡がんセンターの医師についての人事上の特色は学閥がないことです。開設時、41診療科のトップには、全国からがん医療の腕達者を招きました。そういう歴史もあって、特に、外科系や中央診療部門では、当初、1人ひとりの医師の経験、好みから極めて多数の医療機器や様々な診療材料の購入が求められました。医療機器については、高価でもあるため医療スタッフ間の話し合いで整理しましたが、診療材料についてはそれが容易ではなく、当初、品目数は現在の2倍以上はあったと思います。それを、10年余りかけて、様々な工夫により約4,000品目まで絞ってきたのが実情です。この段階で、基本構想の段階から協働してきた医療コンサルタントとともに協和医科器械をはじめとするディーラーの方々には積極的なサポートをしていただきました。特に、ディーラーの担当者の持つ様々な情報は有益でした。

医療機関の事務局および医療スタッフとディーラーの良好な関係は様々な要素で決定されます。もちろん、入札などでの金額は重要な要素ですが、それとともに、企業との信頼関係、そして、日々、訪れる担当者の知識、人柄、対応のよさが重視されます。この点で、静岡がんセンターの開設以来、協和医科器械の担当者は、要望への真摯な対応、医療機器に関する豊富な知識、問題が生じたときの素早い対応などの点で高く評価され、今日に至るまでの良好な関係を築く礎となってきました。

わが国における超高齢社会の訪れとともに、医療・介護・福祉など社会保障関係の予算・費用には厳しい逆風が吹いています。この点で、医療系のディーラーの将来も、必ずしも順風満帆とは言えないように思います。政府は、医療費の伸びを抑えるため、様々な理由で困難な技術費削減を避け、医薬品費、診療材料費の圧縮に取り組んでいます。この流れの中で、医療機関とメーカーとの間をつなぐディーラーには今後も医療費圧縮の圧力が続くことでしょう。もちろん、各企業内で、経営規模の拡大や作業効率を向上させる取り組みは続くでしょう。しかし、それにはいずれ限界が来ると思います。

少し、話は脱線しますが、私は,国立がんセンターの医師と宮内庁御用掛を併任していました。御用掛は、皇族の方々の暮らしを支援する役割を持ち、外国からの賓客を迎えるときの通訳、和歌など文化活動の指南など幅広く活動しています。私自身は皇族の方々の健康管理を担っていました。様々な分野の御用掛が集うある機会に、若手の御用掛同士で「御用掛という職名は御用聞きのようだ」と話していたところ、高齢の方に「御用掛というのは、特殊技能を持って皇族の方々を支援する役割であって、御用聞きと一緒にするとはけしからん」と諭されました。ディーラーの活動の今後の在り方は、「医療機関の御用聞き」から医療機器・診療材料に関する詳しい情報を持って医療機関を支援する「医療機関の御用掛」としての役割を強化していくことだと考えます。そこでは、協和医科器械がすでに手がけているSPDとディーラーを一体化させる取り組みが重要な役割を果たすことでしょう。

また、医療機関からの視点では、数十社に上るディーラーの担当者が、日々、静岡がんセンターへの物品配達のためだけに訪問している状況も気になります。この訪問に情報提供が含まれていればよいのですが、単なる物品の配達であれば、今後、改善の余地があるように思います。静岡がんセンター開設前に、東西に長く、高速道路が充実している静岡県の特性を生かして、医療用物品を県内医療機関に届ける医療物流の県公社ができないか検討してもらったことがあります。このアイデアは実現しませんでしたが、人手不足の昨今、物品配達という単純作業を企業が共同で行うような形が取れれば医療の効率化の一端を担えるように思います。

最後に、協和医科器械の地域における医療啓発活動について述べておきたいと思います。2007年から、協和医科器械が主催し、静岡県内で開催されているメディメッセージは、超高齢社会を生きる地域住民の医療技術への理解を深めるとともに、医療を担う医療人材の育成までも視野に置いたチャレンジです。年1回、静岡県東部、中部、西部のいずれかで開催し、毎回、約7,000人が訪れるイベントに育っています。静岡がんセンターは、当初、東部での開催において中心的役割を果たさせていただきましたが、現在では、医療スタッフの確保が困難で、お手伝いすることが難しくなっています。しかし、多くの小学生、中学生、高校生が、目を輝かしながら最先端の医療技術に接する光景を見ていると、協和医科器械の重要な社会貢献として誇るべき活動だと思います。今後、困難を乗り越えながら継続されることを期待しています。

特別寄稿 地域住民の笑顔のために、
業界を引っ張ってもらいたい

協和医科器械は、様々なお取引先とお付き合いがあります。その1つが製薬・医療機器・ヘルスケア製品を扱うジョンソン・エンド・ジョンソンです。同社前代表取締役社長の日色保氏が最初に赴任した静岡のパートナーが協和医科器械でした。日色氏は、右も左も分からない中で、仕事の基礎を教えてもらったのが、協和医科器械だったと言います。協和医科器械から学んだことが、その後のビジネスマン人生に生かされたと語る日色氏に、協和医科器械の強みとこれからの期待を語っていただきました。

協和医科器械に育てていただいた

ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社前代表取締役社長 日色保氏の写真
ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社
前代表取締役社長
日色保氏

1988年にジョンソン・エンド・ジョンソンに入社して、最初に赴任したのが静岡でした。事務所と言っても私1人。業界のことを右も左も分からない状態で乗り込んだというのが正直なところでした。協和医科器械は静岡県内では圧倒的なシェアを持っていましたから、毎朝、協和医科器械の営業所に立ち寄り、その日の営業のための打ち合わせをしたり、夕方にはルートセールスから戻ってその日の報告をしたり、これからの仕事の段取りをしたりなど、日参していました。ですから、新人であった私は協和医科器械の社員の皆様に育てていただいたと思っています。

私も、最初のうちは怖いもの知らずのようなところもありましたから、自分の力で何とかしようと思っていたところもありました。しかし、様々なことを学ぶにつれて、協和医科器械とはパートナーとしてきちんと向き合わなければ、仕事が進まないことを知るようになります。

仕事で抜け駆けするようなことをして、怒られたこともありました。最初から私自身が、協和医科器械の社員の方から信頼されていたわけではないことも、今になって振り返るとよく分かります。それでも、業界のルールなどを教えてもらいながら、だんだんと懐に入っていけたのではないかと思います。

人と人とのつながりを学んだ

その中で、当時の池谷定社長にとてもかわいがっていただいたことは、今でも思い出します。毎日のように会社に顔を出していると、メーカーの若造が頑張っているな、という感じで、よく声をかけてもらいました。

実は、入社して2年目に体調を崩して、入院したことがありました。最初に見舞いに来ていただいたのが、池谷社長でした。私自身、驚くやら恐縮するやらでした。入院先の病院でも、お付き合いのある協和医科器械の池谷社長が見舞いに来られたと、話題になっていたと後で耳にしました。メーカーの一介の若手営業にすぎない私に対する厚情に対しては、今も感謝しています。

入院したときの思い出としてもう1つ、ライバル関係にあるメーカーの担当者も見舞いに来てくれました。その方が私にこう言われました。「日色さん、早く退院してください。そうでないと仕事が進まない。協和医科器械が、日色さんのいないところで案件を進めるのは信義にもとるから、今はストップだと言うんです」

協和医科器械と仕事をすることで学んだのは、人と人とがつながることでビジネスがつくられるということでした。協和医科器械は、“気持ち”で仕事をする会社だと思います。人を大事にすることの大切さを最初に学べたことは、私のビジネス人生の大きな糧となりました。

伝統と革新を併せ持つことが強さ

その後、私も立場を変え、また協和医科器械の社員の皆様もキャリアを積まれていきます。メーカーと卸という立場こそ違え、真のパートナーとして業界を支え合ってきたことを感慨深く思い出します。

協和医科器械は、1990年代から本格的に静岡県外への進出を試みます。そのとき、進出するエリアの会社を買収するのではなく、地道に一歩一歩、自分たちの力で影響力を広げる努力をされました。

まずは、自分たちの信頼を得ることが大切という考えだったと聞きました。そのために、すでに社内で中核となられていた社員の方を、あえて静岡県外へ転勤させました。逆に、すでに高いシェアを持っていた静岡県内の営業を、若手社員に任せるという戦略を取りました。

攻めと守りの営業と、それぞれ苦労はあったと思いますが、それによって中堅社員も若手社員も育ったのだと思います。人を大事にする、協和医科器械の伝統と文化が、こうした経営戦略にも活かされていたのですね。

その後、協和医科器械は、大きく転換を図り、企業の合併・買収(M&A)戦略を積極的に仕掛けます。その戦略の転換にも目を見張りました。医療業界も21世紀に入って大きな変化を遂げています。伝統を守りつつ、変化に対応するために新たな革新に挑戦するのが、協和医科器械の強みなのではないでしょうか。

これから10年、20年先の医療業界は、今とはがらりと変わっていることでしょう。物流機能に異業種が参入することもあるかもしれない。高コスト体制の改善も急務でしょう。また地域医療の在り方について、卸会社が提言することも求められていきます。

伝統を守りながら革新を追い求める協和医科器械だからこそ、果たしていけることがあると思います。地域住民が笑顔で健康な生活を送れるように、医療機関、卸、メーカーが三位一体となって医療に貢献できるように、協和医科器械が業界をけん引されていくことを期待しています。

「笑顔を願った60年の歩み」全文版
執筆:小坂義生
プロフィール:ダイヤモンド・リテイルメディア社に勤務後、ライターとして独立。ビジネス雑誌へ執筆の他、企業の社史編纂や、企業のPR冊子の編集に携わる。また、大学や研究機関の最新研究の紹介や、様々な分野で活躍する人へのインタビュー記事、ヘルスケア関連の書籍を執筆。著書に『空を飛んだペンギンは次にどこへ向かうのか サンシャイン水族館を復活させた現場改革』(日経BP)がある。

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